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一人でヒーリングサロンを広島に開店しました。開店までの奮闘記、波乱万丈の人生日記♪
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Dさんは、何か思い当たることがあったらしく、

「なるほど」と大きくうなずいて帰られました。

それから1年ほどサロンに通い、今ではすっかり元気を取り戻したDさんから、

ある日、こんな話を聞きました。

「ワタシは、何でも自分で抱え込んで、

絶対に不足や不備がないように緊張しっぱなしだったのです。

周囲への気遣いも万全のつもりでした。

それなのに、なぜか人から好かれていなかったんです。

いつも紙1枚ぐらい隔てられている感じがあったんです。」

ワタシに「いい加減」を勧められ、徐々に手を抜いたり、

同僚に力を貸してくれるように頼むようになり、

以前の半分ぐらいの力でやるようになったところ、

周囲の反応が大きく変わってきたというのです。

今では、「前より付き合いやすくなってきた」とよく言われるそうです。

いい加減は相手の気持ちもラクにさせるのです。
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Dさんは、放送局の管理職を務める女性です。

男女雇用機会均等法の時代と言っても、大組織の管理職まで昇りつめたのですから、

相当の努力をしてきたことは容易に想像できます。

ところが、少し前から鬱状態が目立ってきたのです。

そこでワタシは「いい加減の癖をつけてみてはいかがですか?」

と話しました。

しかし、彼女は、どんな仕事にも全力で取り組み、手を抜くことができません。

そうでない自分は情けなくて、好きになれないというのです。

「いい加減」の提案に対しても、強く反発しました。

彼女の反発が多少やわらぐのを待って、ワタシはこんな風にお話しました。

「『いい加減』という言葉はもともとは『良い加減』と書き、

加えるのと減じるのがちょうどよくバランスが取れて状態を示しているのです。

いい湯加減、いい味加減などというでしょう?

ところが、仕事や生き方の場合には、いつの間にか、

『良い加減』というイメージが崩れてしまったのです。

仕事も『良い加減』でやることはいいことなんですよ。いかがでしょう?」


真面目、誠心誠意、力の限り、とにかく頑張る・・・・・・

それがよい生き方だという考え方も根強いものです。

その反動として、

「ワタシは一生懸命やっている。それなのに、周囲はワタシを認めてくれない」

と悩み、精神のバランスを失ってしまう人もいます。

そんな人へのワタシの処方箋は、「いい加減のススメ」です。

「もっといい加減にすればいいんですよ」

「いい加減の癖をつけると、ずっとラクに生きられるようになりますよ。

周囲の関係も好転していきます。」

としつこいほどに伝えます。

実際、もっといい加減に生きる方がいいのです。

いい加減は、「良い加減」なのです。

自他共に認める真面目な努力家で、いい人が、

次第に仕事や人生に対する意欲を失っていき、やがて、

鬱に陥ってしまう例があまりにも多いのです。

そういう方は、ワタシが「いい加減と言うのはいいことですか?」

と聞くと、例外なく、

「いいわけないでしょう?ワタシはいい加減なんてイヤですね!」

と、むきになって応えるものです。

眉がキッと上がり、声が震えていることえあります。

そんな真面目な人であればあるほど、鬱に陥りやすいのはなぜでしょうか?

そういう人が陥る精神的な不調は、

クライマーズハイと似ていると、ワタシは考えています。

登山者が、ひたすら頂上を目指して登っていうちに、

興奮状態が極限に達し、普段なら働く危険察知能力がマヒしてしまうことがあります。

それが、クライマーズハイです。

真面目な努力家も同じです。

いつもがむしゃらに全力投球しているうちに、

「これは無理だよ」という心身のサインに気づかなくなってしまうのです。

知らないうちに限界を超えてしまい、心がひび割れ、

カラダが悲鳴をあげるようになるのです。

あなたは畳をなめられますか?

畳をなめる課題には、人は、いかに外から植え付けられた思いに縛られているか、

それを取り外すことの大変さと簡単さを身を持って

知っていただきたいという思いが込められています。

いい大人に「畳をなめてごらんなさい」というのですから、

誰もがきょとんとします。

貴女も、畳をなめるなんてことを考えたこともないでしょう。

そんなことにどんな意味があるのだろうと思っていませんか?

実は、「畳をなめるなんて考えられない」「意味がない」という思い込みこそ、

自分が外部からの考え方に支配されていることを物語っているのです。

赤ん坊の頃を思い出して描いてみましょう。

親の目を盗んで、畳をペロペロなめていたはずです。

それどころか、テーブルの縁、泥だらけのボール、犬がかじっていた玩具・・・

何でも訳もわからず、なめまくっていたはずです。

それが原因で病気になることなどめったにありませんでした。

それなのに、より抵抗力がついた大人になると、

かえって畳をなめることができなくなるのです。

なぜでしょう。

それは、畳をなめるたびに、周りの大人から、

「畳なんかなめちゃダメ。バッチイでしょ」と言われ続けてきたためです。

そのため、成長するに従って、

いけない物だという考え方が刷り込まれてしまったのです。

つまり、大人になって畳をなめるという行動は、

長年にわたって自分を縛ってきた刷り込みや価値観を打ち破ることの象徴なのです。
アメリカでは、親がこともを叱る時、「お前がしたことはいいことか、悪いことか」と、

それが道徳的に正しいのかどうかを考えさせたうえで、

「お前はどう思うのか」と、

自分自身の主体的な考えを持つことを促すことが多いようです。

あるいは、

「みんな大人しく、いい子にしているでしょ。うるさく騒ぐような悪い子はあなただけよ」

ではなく、

「ここでは静かにしていましょうね。ママと約束できる?」と

話し、それでも騒いだ時は

「あなた自信が約束したでしょう?約束を守れないのは悪い子だ」

と叱るのです。

一つのヒントになる話です。

いつも人と比べる世間中心の生き方をしている間は、

心がほっと安らぐことは望めません。

高い山を目指して必死に登って行っても、

頂きだと思って登った先にはさらに高い山々が遠くに見えてくるものです。

相対的価値は、際限がなく、高く登れば登るほど、

さらにストレスが強くなる傾向があるのです。

解決策は一つしかありません。

周りと比べ、周りより高い山に登ろうとするのではなく、

自分が登りたい山に登る、という生き方に切り替えるのです。

自分を主人公にした生き方をすると意識を変えていくだけでも、

心の冷えはかなり改善に向かいます。


ワタシ達も、子供をしかる時

「そんなことをすると、よその人に笑われますよ」

「恥ずかしいからやめなさい」

などと言わないようにしたいものです。

なぜなら、そういう言い方は、世間の目を基準に行動しなさいと

子供に教え込むことになるからです。

人と比べる生き方は、外部からのストレッサーの刺激をずっと受け続けて、

それに抵抗したり、反発する力がそがれ続けている状態と言えます。

その状態が、これまでの人生の長さだけ続いているのです。

こんなに辛いことはありません。

そんな状態で、厳しい現実の中で生きているのです。

心やカラダが悲鳴をあげ、

病気に逃げ込もうとするのも無理はないと言いたくなります。
誰だって、自分が一番大事だと考えているつもりでいます。

ところが実際、自分よりも、他人の価値観に左右され、

本来の自分が望んでいること、やりたいことを見失ってしまっていないでしょうか?

これでは、決して自分を大事にして生きているとはいえないのです。

人は社会的な生き物です。

社会と断絶し、孤立して生きていくことはできません。

だからと言って、判断が社会や他人に引きずられてはいけないのです。

テレビで高校生が応えるクイズ番組を見ていたら、

1人が「医学部受験を考えている」と言います。

理由を尋ねられると、「偏差値が一番高いのが医学部だから」というのです。

愕然としました。

世間的な評価を自分の判断基準にしているわけなのです。

将来を決める大事な選択を、他社との比較の中で決めることに、

何の疑問も感じていないのです。

もう少し、主体的であってほしいと思います。

偏差値とは、大勢の人と比べて、

自分はどのあたりに位置するかを知るための数値に過ぎません。

偏差値をものさしにして考えるクセがつけられて、自分の進路を決める時でさえ、

人と比べてどうであるかが最初に来るのは悲しむべきです。
同じ反応は、ラットを檻に閉じ込めた場合にも起こることが分かりました。

さらに、持続的にストレスを与え続けると、

「警告反応期」「抵抗期」「疲弊期」の3つの段階を経て、

反応を起こすこともわかりました。

警告反応期は、突然のストレッサーの刺激に、ショックを受けている段階です。

抵抗期は、さらに続く刺激に踏ん張り続け、

ストレッサーと生体の抵抗力が一定のバランスを保っている状態を指します。

そして、疲弊期には、保っていたバランスが崩れ、ついには生体に変化が表れるのです。

ラットでは、初めはキイキイ騒ぎ、方向感覚を失ってウロウロ動き回ったりしますが、

さらにストレスが続くと、ほとんどが動かなくなり、さらには食欲も失い、

全身状態が悪くなってしまいます。

では、人の場合のストレッサーは何でしょうか?

ほぼすべての場合は、仕事、そして上司や同僚、家族、友人、恋人など、

自分以外の人間から加えられる刺激だといってよいでしょう。

人の目や社会の評価を気にするあまり、長い時間、自分を抑えつけています。

その結果、疲弊期に達し、体温が低下し、神経活動が全般的に鈍くなり、

動かなくなってしまた・・・・・・それが鬱であり、心の不調です。

もっと自分本位であっていいのです。

そうでなくても、社会にはいろいろな縛りがあるのです。

自分が自分の味方になって、自分を守って上げることが大切です。

ワタシは「自分を解放することが一番大事ですよ」

と繰り返しお話しています。
心やカラダに不調がある人に、理由を聞くと、誰もが

「ストレスが強くて」

と応えます。

そこで、ストレスの正体を見極めてみましょう。

ストレスとは、何らかの刺激を受けて、生体に生じた歪みのことです。

人の心も外の影響で歪んでしまうのです。

ストレスは、元来は物理学用語でした。

例えば、柔らかなボールを手で押すとくぼんで妙な形になります。

この現象がストレスです。

この時、外部から加わる力をストレッサーと言います。

1930年代、カナダの生理学者ハンス・セリエは、

生体に外的な刺激が加わった場合の反応を実験し、その結果を発表する時、

この現象を物理学用語の「ストレス」という言葉で説明したのです。

セリエの実験はラットを使って行われました。

ラットに性ホルモンの注射をした時の反応を研究していて、

ホルマリンを注射した時も同じ反応をラットが多いことに気づいたのです。

ここから、ラットは「注射された」という刺激に対して、

ある種の反応を示すことを発見したのです。
鬱に限らず、病気は生き方の歪みや無理に気付かせてくれる

サインだとワタシは思っています。

そして、生き方を変えることは、本人にしかできません。

医師も家族も、側面援助や後方支援しかできないのです。

病気、特に鬱や生活習慣病は、

「自分で治すのだ!」という自覚が必要です。

病気が教えてくれた生き方の間違いを率直に受け入れ、

自分の努力で自分を変えていくことが大切です。

治療の主役は自分自身です。

「病気になってよかったですね。

自分の生き方の歪みに気づくチャンスを与えられたのですから」。

むしろ、そう言ってあげたいくらいです。

意欲がそがれる、モチベーションが維持できなくなる、

人と会うのが嫌だったといった鬱の症状は、

トラックがオーバーヒートしているのと同じです。

いったん小休止し、じっくり考えてみましょうということなのです。

普段の生活で、自分は何を一番辛いと感じているのか。

辛いと感じないようにするには、どこをどう直したらいいのかを考えるのです。

実際に「一体、これまでの自分の生き方は何だったのだろうか、とつくづく思う」

と言い出す人がよくいます。

辛いほど重たかった荷物を下ろすために、有給休暇をまとめて取り、

海辺の温泉に滞在型の旅行をしてきた方がいます。

「旅先で見た海に沈む夕陽が本当にきれいだった・・・・・・。

これまでは、そうしたことに目を向ける余裕もなかったんですね」

と言っていました。

こうした気づきを得たのは心が不調になったからです。

気付かなければ、もっと恐ろしい結果になっていたかもしれません。
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