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一人でヒーリングサロンを広島に開店しました。開店までの奮闘記、波乱万丈の人生日記♪
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社長に従業員の人たちに紹介され、
食堂にも案内され、まかないのおばさんに会った。

そして、おばさんに今日からふたりが住む アパートに連れていかれた。
とりあえずのものは揃っていた。
足りないものがあったら 言ったらいいからと言われた。

自分たちの荷物を置いて部屋を整える。
近くのコンビニに 細かいものをふたりで 買いに行く。

不安もあるし、パチンコ屋は初めてでちょっと心配だけど、
新しい生活が始まるかと思うと 何だかとても新鮮な気持ちになった。

ここで、私はしょうちゃんの奥さん・・・

私の名前の上に 「鍵本」としょうちゃんの名字が くっついているのが
とても不思議な気がした。

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調布は同じ東京とは思えないくらい田舎だった。
都心とは違い高層ビルもないし、
田んぼもあるし、
割とのんびりした町だった!

二人はパチンコ屋に向かっていた。

「パチンコ屋なら食事が出るし寮もあるから!
夫婦ってことにするから」

としょうちゃんは言った。
確かに食事も寮もあれば、
毎日の暮らしには不自由はしない!

そして、私たちは夫婦のふりをして
パチンコ屋の面接に行った。

事務所に連れて行かれ、
社長らしき人に会った。
ちょっと見はヤクザに見えなくもない。
ソファーに座り、いろんな説明を受ける。

そして、明日からここで
働くことになった。
東京に着くと駅の中にある喫茶店に入って
腹ごしらえをする。

しょうちゃんは
新聞を持ってきて
何やら一生懸命記事を読んでいる。
不思議に思いながらも
あまり気にも留めないで
ご飯を食べる私。
しょうちゃんも
新聞を読みながら食べ始めた。

二人とも食べ終わるとお店を出て、
電車に乗った。
そして、調布で降りた。

何処に行くのかもわからないまま
しょうちゃんの後を付いて行った。
東京に行くことにした。
大阪行きの電車に乗り、
新大阪から新幹線に乗り換えて
東京に行く。

しょうちゃんが一緒だけど
不安ばかりが募る。
しょうちゃんも口には出さないけど、
不安だったに違いない。

大阪に着いて二人は
腹ごしらえをして
東京行きの新幹線に乗る。
東京に着いても
住む所も仕事も何も決まってない。

一体どうするのだろうか?

とは思いながらも
エアコンの暖かさに眠くなった。
いろんな事があり過ぎて
あまりぐっすりとは寝てなかったから
東京に着くまで夢うつつの中を
行ったり来たりしていた。
ある朝、両親が仕事に出かけた後、
「出よう」と言い出した。
そんなに居心地が悪かったのかと
ちょっと後悔した。

でも、黙って家を出ることはイヤだった。
父の冷たい態度も
私を愛しているからこそなのだということは
私がよく知っている。
私を心配してくれている人たちの前から
何も言わずに消えるなんて考えられなかった。

でも、しょうちゃんは
「二人が結婚して子供ができれば
許してくれるよ。」
と言った。

私は両親の気持ちも
しょうちゃんの気持ちも
わかるから悩んだ。

でも、結局しょうちゃんを選んだ。
父も母も私を許してくれると信じた。


駆け落ち。。。

若さゆえの行動だった。

今考えるとなぜ思いとどまらなかったのか
と考える。
が、あの時はこれが正しい選択だと思った。

周りの人の気持ちを考えないで
自分勝手な事をしてしまった。
私は学歴があるより
しっかりと生きているほうが好きだ。
そして、学歴がなくても
自分の才能を最大限に
頑張っている人が好きだ。
だから、きっと私は
しょうちゃんを好きになった。

父の偏った考え方は好きじゃない。
でも、いつかはわかってくれると信じていた。
あの頑固な父を説得するのも
時間がかかると知ってはいた。

ただ今すぐではなくて
少しずつでいいと
時間をかけていけば
なんとかなるのではないかと
私は思っていた。
明石から電車に乗って
故郷の山陰に帰った。
帰ると父は
しょうちゃんが気に入らないらしく
あまり歓迎されなかった。

「彼氏がいる」と言えば、
私たちはそんな事など考えていなくても
すぐに結婚に結びつける父親なので
あまり連れては来たくなかった。

連れて来なければ、
「何で今まで黙ってたんだ」
と言われるし、
連れて来れば、
「突然連れてくるな」
と言われる。
そして、
学歴で人を判断する父は
「男なら誰でもいいのか」
と言って私を傷つけた。
私はどうしていいかわからなかった。

過去にそうやって
嫌な思いを私だけでなく
その当時付き合っていた人にも
させてしまった。

だから、私はそんなに長く
実家にいるつもりはなかった。
少しの間だけでも、
緊張と不安な気持ちが
休まればと思ったからだ。
甘えなのかもしれないが、
唯一頼れる場所だと思っていた。
明石に着くと、
神戸では被災して大変な生活をしているのに
明石ではまるで何もなかったように
生活をしていた。

驚いた!!!

明石の人たちには
どんな風に見えたのだろうか?

電車に乗り込んだ時に
不思議そうな顔で
女の子が見ていた。

お風呂も入っていなくて
頭も体も痒いくらい
私たちは汚れていて、
ホームレスのようだった。
普通の生活をしている時は、
こんなことはあり得なかった!

でも、生きることが精一杯で
身なりなど気にしている暇はなかった。
必死だった!!!
社長は店長とこれからの事を
話し合った結果、
すぐには今のお店を開ける事は
無理だと判断した。
そして落ち着いた頃に
連絡を入れてくれることになった。

ワタシとしょうちゃんは
とりあえずワタシの故郷に
行くことにした。

神戸市内からは電車は動いていないし、
車で移動するのもとても無理だったので、
必要最小限の荷物を持って
自転車で明石を目指した。
明石まで出れば
電車も動いているかもしれないと
考えたからだ。
何時間もかけて走った。

周りを見ると、
リュックを背負って歩いている人や
私たちのように
自転車を走らせている人が
たくさんいた。
まるで社会科の教科書に
でていた 中国の町を
思わせるような光景だった。

そして、戦後はこんな感じだったのかな?

と ふと思った。
戦争は経験したことはなく、
テレビの中でしかその悲惨さは知らない。
けれど、交通機関は全て止まってしまい、
食糧は入って来なくて
食べられなくて辛かった。
毎日当たり前のように入っていたお風呂も
もう一週間も入っていなかった。

それに木造建築の多かった長田は
たき火の残り火が原因で家屋を
焼き尽くしたのを目にした時、
ちょっとショックを受けた。
そうこうしているうちに社長がいらっしゃった。

社長はみんなのために
リュックにたくさんのおにぎりを持って
甲子園口から自転車でやってきた。

パワフルな社長だな~

と思ったら
学生時代は柔道部だったらしい。

私たちはガスが通っていなくて
コンビニにも食べるものはないし、
水も出なくてお茶で歯磨きをした。

そんな私たちを思って駆け付けてくれた。

携帯電話も今のように
誰でも持っているわけではなかった。
そして、こちらからかける分には問題なかったが、
県外からは通じなかった。
ワタシのポケットベルにも
いろんな人から入ってきていたが、
震災の影響で訳のわからなくなっていた。

そんな状況の中、
店長が社長に連絡を取ってくれたのだ。
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