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舞ちゃんのことも
忙しさに紛れて
自然と忘れて行った。
初めのうちは
ずっと気になっていたし、
もしかしたらこの街のどこかで
いつかばったり偶然に
出会えるかもしれないと
思っていたが、
結局会えずにきてしまった。
そうしているうちに、
うちのおばあちゃんが
老人ホームに入院することになった。
老人ホームの部屋の空き待ちをしていたが
とうとう入院できることになった。
しかし、喜んでいいものかどうか・・・
部屋が空いたということは
入院していた誰かが
亡くなったということだからである。
悪い言い方をすれば
入院している誰かの死を待っていたのである。
母はずっと家で面倒をみていたが
かなりの負担があったと思う。
朝早くから夕方まで働いて帰ったら
わけのわからなくなっている
おばあちゃんの世話・・・
夕飯を食べ終わって少しすると、
自分が食べた事さえ忘れて、
「ご飯はまだ?」
と言っている。
おばあちゃんの認知症は今に始まったことではなかった。
考えると、私が小学5年生くらいから始まったみたいだ。
認知症はゆっくりとでも確実におばあちゃんの頭の中を
空っぽにしていった。
最初のうちは、家族のことも愛犬のことも覚えていたが、
次第に私のことも父のことも弟のことも
忘れていった。
最後まで覚えていたのは、
いつもお見舞いにきてくれる母と
看護師さんのことだけだった。
すごく淋しかった。
悲しかった。
両親の反対を押し切って
神戸に出た私だが、
引け目を感じていたし、
心配をかけたくなかったので、
毎月月末になると、
3日余分に休みを取って
実家に帰っていた。
この6月も実家に帰った。
しかし、その月は
母も体がしんどいらしく
「もう一日居てほしい」
と頼まれた。
母は弱音を吐く人ではなかったので、
きっと本当につらかったのだろう。
1日伸ばして
仕事当日の昼に出れば
夕方には神戸に着くから
仕事には十分間に合う。
少しでも母の負担が軽くなればと手伝った。
でも、心配と思いながらも明日になれば
何事もなかったかのように神戸に帰る。
神戸に帰れば、もとの生活。
しかし、母は違う。
毎日、おばあちゃんの認知症を目の前にして
老いの悲しさを目の当たりにしているのだろう。
何もしてあげられない自分が情けなかった。
神戸に帰ってから
家では何の役にも立たなかったかもしれないけれど、
お仕事でしっかりお客さんの役に立とうと
一生懸命お話も聞いたし、
いつも元気な紗也加でいることが
私の今できること・・・
母の役に立てない分
私のいる場所で誰かの役に立とうと
この日は特に必死に頑張りました!
きっと傍目に見たらおかしかったことだろう!
私が何かある時、調子の悪い時は
テンションがいつもより高いから
みんなにはバレバレだったと思う。
でも、何も聞かないでいてくれたみんなに感謝でした☆彡
たぶん聞かれたら泣いてしまっていたかも知れません(+_+)